静岡県立清水東高等学校
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「百世不朽 正篤題」からの教え

校長 鈴木 幸平


 平成二十二年度が終わろうとしている。この一年間、自分自身の取組みや周囲の人の尽力によって、幸いなことにある種の成果を得ることができた人もあったろうし、意に反して、学業と部活の難しい両立に苦しんだ人もあったであろう。人によっては、通学途中に近隣の方々から、学校行事や授業の中では先生方からお叱りを受けたこともあったかもしれない。「非は非、是は是」とけじめとメリハリある姿勢を貫いた清高生も多かった。いろいろな困難を乗り越えるたびに、人の温もりのありがたさと人間関係の難しさを学んだ人も多かったかもしれない。そんな本校生を見ていると、自らに与えられた才能や資質を生かしつつも、将来、人に尽くす指導的立場に立つ素養が徐々にではあろうが、しかし、確実に養われているように見受けられる。

 そんな思いを抱きながら、校舎、校庭を一周して中庭を正面玄関のガラス窓から眺めると、春の芽をのぞかせている芝生の中に凛と立っている大きな石碑が目に入る。「百世不朽」とある。「百世代にも渡って、永遠に朽ちることなく繁栄し続ける」という意を込めた願いがそこに刻まれている。が、その字を揮毫された方は誰かと近寄って石碑の左下を見ると「正篤題」とある。戦前戦後一貫とした不易の教学精神と活学追求の学風によって、多くの人々の心の支えをしてきた安岡正篤氏のことである。東洋学に裏打ちされた該博な知識とその人物としての魅力によって、わが国の進むべき道を、常に指し示してこられた方で、昭和の歴代首相や、三菱、住友、近鉄、東京電力など多くの財界人に「師」と仰がれた碩学である。

 このような先哲とも言うべき安岡正篤氏から、本校がいかにしてこの揮毫をいただいたのか、その経緯についていろいろと調べてみたが、どうもわからない。が、私自身の勝手な憶測ではあるが、おそらく、駿河銀行の岡野喜一郎頭取を介してのことではないかと拝察する。安岡氏は、静岡市に来ると徳川慶喜公の屋敷跡にある「浮月楼」によく立ち寄り、県下の知識人や有力者を集めて薫陶しており、また、岡野頭取は、当時安岡氏に師事し、直々の指南を受けていたとの記録があるからである。あるいは、安岡氏は、青年の育成に強い関心を寄せられ、全国各所で陣頭指揮に当たられていたことから、全国師友協会など何らかの繋がりが本校の当時の三上正男校長にあったのではないかと推察している。

 さて、世の中には、様々な分野でその界を力強く牽引している精神的、実践的指導者がいる。が、そのような幾人かの指導者の中にあって、昭和の時代に大きな影響を与え、平成に入ってからもその影響力が朽ちることのなく「師の中の師」と呼ばれた方がおふたりいる。そのうちの一人がこの安岡正篤氏である。(もう一人については、後日、言及。)

 東洋思想を基礎とした普遍的真理を現代に生かすようにと、人としての道(人間学)、あるいは、国家や指導者の在り方(帝王学)を力強く論じた。その感化力は凄まじく、とりわけ、昭和の政財界人に多大な影響を与えた。政界で言うなら、吉田茂、佐藤栄作など岸信介以降の歴代首相や、さらには、山本五十六、蒋介石なども教えを受けた。財界では、松下電器創業者の松下幸之助氏、住友生命保険名誉会長の新井正明氏、東京電力相談役の平岩外四氏、京セラ名誉会長の稲盛和夫氏など錚錚たるメンバーである。そのため、安岡氏は、「首相の指南役」とか「御意見番」などと称された。また、第二次世界大戦の終結宣言である、天皇のいわゆる「玉音放送」の詔勅の草案に筆を入れた方であったことは、よく知られているところであり、また、今の元号「平成」の発案者であったことも、当時の竹下登総理が記者会見で言及している。

 しかし、安岡正篤氏の本当の偉大さは、没後三十年近く経った今日においてもなお、安岡氏を私淑、尊敬する人が多く、その人格、人徳、人柄が慕われ続けているということだ。その全体的、多面的、本質的思想の深遠さ、広大さが、時代を超えて今なお、多くの人たちへの深い感化力を持ち、影響を及ぼしている。

 昨年末、大相撲九州場所で、横綱白鵬が六十三連勝で稀勢の里に負けた。普通の人は、「勝つ」とスポーツ新聞に取り上げられるが、本当に強い人の場合は、「負ける」とそれがビックニュースになるものだ。白鵬は、肉体的に強靭で精神的にも安定していた、あれほどの力士である。それだけに、「負けるとは、こういうことか」と無念を飲んだ。その夜「休場を考えた。心と体がひとつにならないんじゃないか」と思い悩んだという。元横綱双葉山の持つ最多記録六十九連勝を狙っていたが、その記録更新はならなかったのである。

 そうすると、白鵬が目標としていた双葉山とはいったいどんな人物だったのか、どれほどの修行を成し遂げた人なのか、関心が寄せられる。が、これには、中国の道家の代表的著書「荘子・外編」にある木鶏の話に由来する、次のような逸話がある。紀渻子という人が、闘鶏好きな王のために軍鶏を調教していた。十日ほど経った頃、王が「もう闘えるか」と尋ねたところが、紀渻子は「いや、まだまだです。空威張りして『俺が』というところがありますから」と答えた。さらに十日経って、王はまた聞いたが、「いえ、まだです。相手の姿を見たり声を聞いたりするといきりたつところがあります」と。また十日経って問うたが「まだ、いけません。相手を見ると睨みつけて、闘志を見せるところがあります。」と答えた。こうして、さらに十日経って、もう一度尋ねた時、はじめて「まあ、やっとものになってきました。他の鶏の声がしても少しも平生と変わるところがありません。その姿はまるで木彫の鶏のようで、徳目が身に付いた状態です。もう、どんな鶏を連れてきても、姿をみただけで逃げてしまうでしょう」と言ったとのこと。

 実は、安岡正篤氏は、双葉山がまだ若かった頃、鼻持ちならない慇懃な言動が目立っていたので、この木鶏の話をしたことがあった。ところが、双葉山は大層感じ入ったらしく、それから木鶏となるための修行をはじめたという。その時に安岡氏から揮毫してもらった「木鶏」の書額を相撲部屋に掛けて、朝に晩に稽古を積むとともに、精神的精進を重ねた。その結果、名力士となって、連勝に次ぐ連勝を果たしていた。その最中に、安岡氏は、国際会議出席のためヨーロッパに向かう船旅の途中で、双葉山から電報を受ける。「イマダ モクケイ タリエズ」とあった。双葉山から「負けた」ことを報せてきた電報だった。前人未踏の記録を達成しつつあった大横綱双葉山が六十九連勝した後、七十戦目についに敗れたのである。寡黙で有名であった双葉山がその時発した言葉がこれである。安岡正篤氏の愛弟子であった双葉山が、「心・技・体」の真意をはじめて会得した瞬間であった。右目が半分失明し、右手の小指が不自由であったというハンディキャップを背負いながらも、木鶏を目指して相撲道に精進し、昭和の角聖といわれるほどに成長した双葉山を生んだ背景がここにある。

 多くの清高生は、将来、何らかの形で人の上に立つ立場になる資質を有している。「長」が付けば、窮地に立つことも、迷うことも、責任を問われることもあろう。それでも前に進んでゆかねばならない時がある。そんな時、安岡氏の教えが、指導的立場にある者にとって不可欠なものの見方や教訓を示してくれるものと確信する。清高と繋がりがある先哲の教えに学べば、迷いが払拭され、確かな方向付けを得ることができるのではないかと期待する。

 年度が替わり、新たな思いを寄せる節目の時だ。自分の転機を図る最適な時でもある。登下校時に、中庭にある石碑にそっと目を注ぎ、その思いを深めたいものである。

(平成23年3月 生徒会誌「たちばな」巻頭言)

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