伊奈神社

伊奈神社 宝永4年(1707)11月23日早朝、富士山東口中腹が大爆発を起こし、その灰、砂は小山町、御殿場市北部全域は勿論、遠く神奈川、東京まで及びました。特に須走では約3m50cmの降砂に埋没、噴火は12月8日まで続き、被災地住民(駿東59ケ村)は大打撃を受けました。
 家屋、田畑、山林、原野を完全に失った住民の決死の嘆願により、幕府は関東郡代伊奈半左衛門忠順を派遣して災害対策の指揮に当たらせました。伊奈氏は、疲労困ぱいの住民を励まし、寝食を共にしてこの難事を克服されました。
 須走村は2年後には宿場をつくり、富士導者を迎えることができましたが、他村では30余年に亘って積もった砂を除去する続く有様でした。
 北駿復活の父『伊奈半左衛門』その人の遺徳を偲び、慶応3年(1867)有志小祠を建立、明治11年(1878)吉久保水神社と須走立山中腹上真地に小祠を建立、明治40年(1907)須走字西ノ沢王子ケ池に伊奈神社を建立しました。
 昭和32年(1979)10月現在地に移祭し、春と秋に大祭が行われています。

伊奈半左衛門の銅像【伊奈半左衛門】
 支配関東郡代であった伊奈半左衛門忠順は、幕府の命により被災地支配を兼務のためこの地に派遣された。宝永7年正月難民が出役して流砂工事に着手したが、一方飢餓に苦しむ者が続出、遂に駿府紺屋町米倉を開き、一万三千石を村々に分配、半左衛門はこの罪状により御役御免となり、後に割腹して命を絶った。
 伊奈半左衛門像は彫刻家堤達男氏の作で、平成元年(1989)に御殿場より移設したものです。
  嶺頂院殿松誉泰運哲翁大居士 正徳2年(1712)没40歳


『伊奈神社』周辺案内図