宝鏡寺

秋の宝鏡寺 『竹之下のお地蔵さん』とよばれ、人々から親しまれている「宝鏡寺」の歴史をたどると、天平年間(740年代)審祥禅師と云う僧が、この宿場をゆききする旅人達の道中安全を願って堂を建てたと伝えられています。
 ご本尊は聖徳太子のつくられた地蔵菩薩で、一刀三礼のご神作であると伝えられているが、堂はその後守護する僧がなかったので時代と共に忘れさられていたが、文治元年(1185)領主の竹之下孫八左衛門が自分の屋敷のそばに一寺を建て、「善光寺」と名付けてお地蔵様を迎えたので再びさかえる様になった。
 しかし建武二年(1335)南北朝廷を二分するもととなった竹之下合戦の戦火によって、御本尊様を残して善光寺はことごとく焼失してしまった。
 このように堂は時代と共にあちこちと建てかえられたが、康永三年(1344)村の人達が力をあわせて今の地に堂宇を建て、「金龍山宝鏡寺」と称して真言宗の僧によって護寺されてきたが、大永元年(1521)密堂秀厳禅師によって禅宗にあらため現在に至っている。
 なお宝鏡寺と縁のある大雄山最乗寺(神奈川県南足柄市・道了さん)を、遠くから拝む風習がいつしかでき、宝鏡寺のお地蔵さんを拝むことにより「大雄山まいり」といって人々の信仰を集めたので寺は大変にぎわい、山号も「大雄山宝鏡寺」と定着した。
 江戸中期より夏の大祭として縁日を催しているが、当日は門前市がたち境内は四州(駿河、伊豆、甲州、相模)からの参拝人や寺相撲で終日にぎわい、特に乳児の健康祈願をする「七つ坊主まいり」は大きな功徳があると伝えられている。
 1200年余も続く寺史の霊験記の承伝は、そば切り地蔵地蔵尊の池、ロマンを秘めた乙女峠の由来など二十有余話をかぞえ、人々の心をとらえてはなさないのは、お地蔵様の霊験であると感じさせられる。

  本尊:延命地蔵尊(伝聖徳太子作) 静岡県指定重要文化財 秘仏となっており見ることができない。
  行事:大祭 8月23.24日       開帳 60年に一度

宝鏡寺の鐘楼 境内にある茶崟塚
鐘楼 茶崟塚
銭洗弁天の洞窟入口 洞窟内にある銭洗弁天の祠
銭洗弁天の洞窟入口 洞窟内にある銭洗弁天の祠

【乙女峠の由来】
 時代を定かにしないが、遠い昔、箱根仙石原に親孝行な娘がいた。名を「とめ」といい評判の小町娘であった。
 ある時、娘の父親が病にかかり枕も上げられぬほど重病になった。そのときから、娘は毎夜何処かへ出ていき、夜明けに帰ってくる。そのうちに薬療の甲斐あってか父親の病気も良くなり、目を盗んで外出する娘にきびしく小言を言ったが、娘は無言で詫びるだけだった。
 ある夜、いつもの様に親の目をさけて外出した娘の後を追ったところ見失い、雪に残った足跡をたよりに探していくと、峠の途中で雪だまりに落ちて苦しむ娘に逢った。
 その姿を見た父親は、男の元へ行った帰りを急ぐあまりに落ちたものと早合点し、天罰と思った。それより先につづく足跡を見て、誰のところに通っているのか確かめようとし、先を辿って急いだところ、宝鏡寺の門前に来た。
 まさかお詣りなどする筈がない。お堂の隅で逢っていたのかと邪推し、戸をたたいて和尚に尋ねた。すると、若い娘が父の病気を案じて二十一日の願をかけてお詣りに来ている。まさか、その娘を追ってきたのではあるまいかと問いただされた。
 そのことを聞いた父親は青ざめた。一時は医者も見放したのが、急に全快へ向かい、今まで薬療の効果とばかり思っていたのが、娘の祈願の表れであったと知り、毎夜の外出はここでお祈りしていたためかと思うと、知らずにいた自分が腹立たしかった。
 それならば早く戻って、雪に埋もれて苦しむ娘を助け、孝養をほめて詫びねば慌てたが、急げど雪に行く手をはばまれて、思うにまかせない。穴に落ち、枝の雪を覆りながら峠の難所に来てみると、哀しいかな娘は雪にもがいて息絶えていた。とめの名を呼んだが、返事はない。その顔は穏やかな表情である。
 涙で雪を解かさんばかり泣きわめいたが、娘は親のぬくもりに応えなかった。父親は浅はかな邪推を悔やみ、あの時に助けておけばよかったものを、と悲しんだ。
 冷たくなった娘を抱いて帰ると手厚く弔い、娘の孝心に感謝しながら余生を送り、そこに手向て娘の孝行話を人々に伝えた。
 やがて、おとめが訛って乙女峠に由来したという。哀話は郷土の伝説に語りつがれ、民謡にも唄われて新たな涙を誘っている。


『宝鏡寺』周辺案内図