◆御殿場馬車鉄道(一本欅)

一本欅 明治32年(1899)御殿場駅前〜須走籠坂峠間で営業が開始され、富士吉田へ接続されることになりました。急坂な道でもあり、冬季の積雪が度々障害となり、明治36年の中央本線開通は物資流通に変化を起こし、営業が不振傾向となって大正8年に須走〜御殿場間が廃止することになりました。
 須走入口の一本欅から下宿バス停の間に今も旧道として残されて居ます。一本欅からゴルフ場の中を下ると水飲み場、その下にマッチャバ(待合場)などの地名がその名残を留めています。
 籠坂峠に向う今のバス道路は、鉄道馬車で開かれ、その時峠切り下げ工事が99間、約200mの間で実施されています。

◆わさび園

わさび園 須走入口に滝口わさび園があります。昭和11年頃、県山林課で北駿高冷地産業振興指導研究で、わさび栽培が始められ、恵まれた湧水が小山町各地にあることで定着したものです。
 当時の新聞に、一般農作物を諦め山葵王国を作れの見出しで、北駿で7町歩、収入年間7万以上、これを30町歩にしてわさび王国に邁進することとなったとあり、当時の開発の状況を知ることができます。
 須走地区にも各地に湧水があって、各所で作られましたが、今はこのわさび園だけが残っていて、湧水の状況から栽培の様子を見学することができます。

◆須走関と道者関

須走関と道者道 沼津→神山→ぐみ沢→須走→甲府は塩道です。塩の外、魚介類、海草など多くの海産物などが送られ、昔は戦略によっては塩どめもされました。
 永禄7年(1565)ぐみ沢芹沢玄蕃允(じょう)荷物勘定と合せ、今川へ直々納べしと今川の臣葛山氏元が命じています。年間120貫文凡そ田24町歩分の年貢に相当する関銭であり、運搬された量の大きさが推察されます。
 又、須走道者関について毎年の如く取り沙汰せしめ、この方へ上ぐべきものなりと命じています。これは関銭とは別に、富士登山導者から徴収したものです。
 須走には運輸業(駄賃稼ぎ)問屋、商人、登山宿等で村が作られていました。関は須走本通り入口浅間神社に向って左手に置かれ、道者関は恐らく宮上の御登り口にあったと思われます。明治初期までは、用水路が町の中央を流れ、荷馬の通行と人の歩く道とを分け、安全を確保する工夫がされていたようです。

◆伊奈神社

伊奈神社 宝永4年(1707)11月23日早朝、富士山東口中腹が大爆発を起こし、その灰、砂は小山町、御殿場市北部全域は勿論、遠く神奈川、東京まで及びました。特に須走では約3m50cmの降砂に埋没、噴火は12月8日まで続き、被災地住民(駿東59ケ村)は大打撃を受けました。
 家屋、田畑、山林、原野を完全に失った住民の決死の嘆願により、幕府は関東郡代伊奈半左衛門忠順を派遣して災害対策の指揮に当たらせました。伊奈氏は、疲労困ぱいの住民を励まし、寝食を共にしてこの難事を克服されました。
 須走村は2年後には宿場をつくり、富士導者を迎えることができましたが、他村では30余年に亘って積もった砂を除去する続く有様でした。
 北駿復活の父『伊奈半左衛門』その人の遺徳を偲び、慶応3年(1867)有志小祠を建立、明治11年(1878)吉久保水神社と須走立山中腹上真地に小祠を建立、明治40年(1907)須走字西ノ沢王子ケ池に伊奈神社を建立しました。
 昭和32年(1979)10月現在地に移祭し、春と秋に大祭が行われています。伊奈半左衛門像は彫刻家堤達男氏の作で、平成元年(1989)に移設したものです。
 嶺頂院殿松誉泰運哲翁大居士 正徳2年(1712)没40歳

◆万妙寺 陣取塚

万妙寺・陣取塚 永禄12年(1568)武田信玄が御殿場深沢城攻めの時です、武田軍は籠坂峠から須走本陣を構えました。北条方注進状に『敵本陣を払い滝の沢を取越しあだの原へ打ち出る由に候』とあります。須走万妙寺裏手は陣取塚と呼ばれてますが、ここに武田陣が置かれた事は間違いの無いものだと思われます。
 現在は野鳥の楽園であり、雑木林の散歩コースに最適です。又、戦国時代の武田・今川・北条の争いを想像しつつ周辺の地形や、御厨方面を展望するのも楽しいものです。

◆立山権現さん

立山権現さん 明治11年(1878)吉久保水神社に、伊奈半左衛門の遺徳を偲んで石祠造営、その時須走立山中腹上真地にも建立されました(木造小祠と思われます)。その後、明治45年(1912)石造の祠が再建されました。祭神『徳川家康公』、領主大久保家先祖累代、伊奈半左衛門忠順となっています。
 現在の伊奈神社の元となっている史跡です。以前は伊奈神社祭典のほかに、権現さんの祭として行われており、子供達は楽しみにして、参拝登山をした所です。

◆須走野鳥保護林

野鳥保護林・野鳥音楽堂 昭和34年(1959)須走桜沢の林約10ヘクタールを、米山昌夫氏から無償で借り受け、県から保護林指定を受けて、野鳥音楽堂を建設しました。
 保護林は重要なもので、探鳥のポイントともなっています。開発により森林減少が心配されていますが、将来に渡って大切にしたいものです。

◆梨の木平合戦跡

梨ノ木平合戦場跡 大永6年(1526)今川氏親が病死、氏輝が跡を継ぐ元服直後14歳の時です。武田信虎はこの機に乗じて出陣、駿東に攻め入ったので、今川・北条はあわてて須走に兵を送りました。
 7月籠坂峠を越えてきた武田勢は梨ノ木平で駿河勢と対戦、今川・北条は敗退しました。『須走殿、惣じて高田一族皆討死、石黒入道並びに葛山、御宿殿討死』妙法記とあります。今川・北条勢力下にあった駿東勢も敗退しました。
 その後もここ須走は武田・今川・北条の対立する戦略上の要地として、人々は苦悩の生活もしばしばありましたが、徳川家康が駿府に入って平和期となっていきました。
 須走殿は須走の一豪族、高田は三島高田の一族と思われ、葛山、御宿は裾野市の武将です。

◆駒止めの松

駒止めの松 旧甲州街道は、矢筈山の間の急坂を一気に登る道です。この道は籠坂峠へ出る難所でもありました。明治時代までは、甲州へ向けて多くの物資が馬の背で運ばれましたが、その量は想像以上に多いことが、須走でも50頭以上の荷馬車、駄馬が飼育され活躍していたことで推察できます。 
 通称水溜の地には10軒程度の集落があり、運送関係の仕事をしていたが、この急坂道の入口に当たるのが駒止めの松のある所、恐らく多くの荷馬をここで休め、その後一気に峠へ向ったのでその名が残ったと思われます。
 又、戦国時代の元亀元年(1570)武田軍が御殿場深沢城攻めの時、須走に陣を張っている武田信玄が、駒を止め休息したとも考えられます。
 その名の起りは色々に想像されますが、確たる定説のないところが面白く感じられます。

◆夕月の碑

夕月の碑 原田浜人は昭和3年頃湯山逸素とこの地を訪れ、籠坂で詠んだ句が『籠坂の月代遅し谷の虫』です。武者小路実篤はこの夕月の碑に「俳句に生涯を捧げた尊敬する方である。その結果、名句とよき弟子を得られた幸せな方である」と碑文を寄せています。
 浜人は浜北市出身で旧制沼津中学校や、後に浜松中学校で英語教師として勤務、昭和14年同人誌『みずうみ』を創刊、県下に多くの弟子がありました。
 勝俣桔梗子もその一人です。文学全集に、暮れてただ稲吹く風や秋祭りがあります。昭和34年、同人弟子有志によって夕月の碑が建てられました。

◆藤原光親卿(あぜちさん)

藤原光親卿墓碑 鎌倉幕府執権北条義時の専横な政治を怒り、後鳥羽上皇は義時追討の計画をし、承久3年(1221)追討の院宣を発令しました。義時の子泰時は素早く京都に出陣し、上皇方を敗り光親卿等5卿を捕らえ六波羅に護送、夫人を北条方武将に預けることになりました。
 光親卿は、甲斐武田五郎信光に預けられる身となったが、その途路幕府の命により、籠坂矢筈山の山中で処刑されました(64歳)。
 須走の人々は卿を天神様として祀っていましたが、明治18年伊豆の国文学者萩原正平の提唱があり、明治19年に須走有志の出願により、明治20年建碑竣工を見たものです。祭典が9月に行われています。
 藤原宗行卿 47歳 御殿場藍沢神社
 藤原範茂卿 27歳 足柄関本で死
 源 有雅卿 46歳 山梨県山城村
 藤原信能卿 31歳 山梨県恵那岩村に遺跡がある

◆籠坂峠と鎌倉道

籠坂峠と鎌倉道 籠坂峠は古来甲州(山梨県)と駿河(静岡県)の国境に当り、政治的にも経済生活面でも重要な地となっています。戦国時代にあっては、武田・北条・今川各氏が戦略の要衝としています。
 以前は駿河国府と甲斐国府をつなぐ官道であり、籠坂峠→須走→足柄竹之下→足柄峠→相州(神奈川)へ続く鎌倉街道があり、須走→ぐみ沢→裾野→沼津への塩道ともなっています。
 天文19年(1540)武田晴信が塩道として新道を開いたとも永禄3年(1560)武田信玄が開いたとも云われていますが、この道は籠坂峠、立山の谷間を梨ノ木平に下る道で、古道は梨ノ木平から矢筈山(天神峠)を直に登る道があったと思われます。
 明治時代には、御殿場馬車鉄道が設置され、自動車道に変化発展したが、甲駿物流、生活交流の峠であることは今に変わっていません。平成元年に東富士五湖道路が完成し、トンネルで一気に山中湖方面に出ることができますが、やはり観光客の車の往来は極めて多い所です。
 峠に宝暦3年(1753)三界萬霊塔(白隠禅師書)があります。